◆◆◆ 1905 ★ S嬢との会話 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2013.11.13.

動物園までの道で、

S「リカちゃん、この前行った展覧会、なんだっけ、あの人、テレビに出てたよ」

オジャラ「ああ、ターナーかしらね。水彩画のね」(それ以外には考えづらい)

S「うん。その人。アタシ、もう、どんな絵か忘れちゃったよ。」

オジャラ「あはは。いいんだよそれで。展示物っていうのは一杯あるんだからさ。自分が好きな作品や、覚えている作品のことだけ考えれば、あとの作品は、力がなかったんだよ」

S「ああ、そうなんだ。」

オジャラ「Sさんさ、今まで行った中で、覚えている作品はあるの?」

S「うん、猫と、ライオン(竹内栖鳳)と、それから、爆発した仏像の頭(興福寺)も覚えてるよ。」

オジャラ「うん、あれはインパクトあったもんね。」

S「あとね、、、、、」

アタシの方が、彼女が何と言ったのか忘れてしまう。とほほ。

ああ、確か、ピエタの話かな。ピエタは西洋美術館には来てなかったけど、その時に買ったレプリカが、おじゃら現代美術館&ギャラリーに展示してあるからね。そのことだと思う。

ミケランジェロ展は、彫刻は二点しかきてなかったし。

ああ、ロダンの彫刻は覚えてるって言ってたな。考える人と、地獄の門。

そんな会話である。

観賞というのに正しさはない。

見て、好きかどうか。

買いたいかどうか、飾りたいかどうか。

まず、そこである。

そうして、見ても、見ても、不要なものばかりなので困る。

優れている作品というのは、脳裏から離れない。

それが、作品の力である。

だから、現代芸術家は、「記憶に残る作品」というものを目指している場合も多い。

その、記憶の残り方というのがね、マチマチなんだけどね。

デュシャンの便器なんかは、「あー、便器ねー。どこが芸術なのかサッパリわかんないわー」

という感想。

それでも、便器が展示してあったことや、便器を芸術だと言う人、品物が11億円だという話などをすれば、みんな、頭の中を???にしながらも、便器のことが記憶に残ってしまうのである。

アタシが一番笑ったのは、便器と一緒に展示されていた、デュシャンに傾倒している作家たちの作品。

ゴレンジャー的にカラフルに、便器をペイントして並べてあるコーナーと、ゴールドにペイントして、ブッダと名付けた作品。

お友達が、デュシャンの泉に敬意を表した結果なのだという。汗。

現代芸術は、品がなくて良い。 

S嬢の場合、感覚的な生活が長いので、特に、そういう印象についての感想が顕著である。

別段、その作品が、とても優れているなどと説明したり、能書きを読んだりしなくても、彼女の記憶の中にでも、スっと入ってくる。

それが作品の、真の力ということになる。

オジャラ「そういえばさ、マンダラの解説、時間かけて読んでたけどさ、あれって、字は読めたの?」

S「読めないのもあったよ」

オジャラ「字が読めないとさ、意味も解んないんじゃないの?」

S「うん、さっぱり解んなかったよ。でも、最後まで読んだよ」

そっ、それは、読んだことにならないですし。。。。

さ、今日はちょっくらと外出してきますん。

おじゃら画廊

Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara.
Copyright (C) All Rights Reserved by Rica Ojara.