◆◆◆ 1898 ★ 眼鏡君との会話-2 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2013.11.13.

バイトの帰りが結構遅い。普段は、午後六時前後に、隣のTHE SUNで、300円のビールを飲むのが日課だが、この日は、閉店間際だった。

そうすると、以前にも登場した、眼鏡君がやってきた。

そうして、アタシが、人生の岐路についての、最大の悩みをマスターに相談していたというのに、

眼鏡「時間がもったいないので、あの、船越保武についてはどう思いますか?」

と切り出してくる。

突然なので、誰だか少し考える。

オジャラ「ああ、彫刻家の?パパの方?息子?もう死んでる?」

眼鏡「多分死んでると思います」

オジャラ「ああ、あの人は天才よ」

実は、このとき、息子の作品と間違えていたんだけど、2分程時間が経ち、正確な作品像を思いだしてきた。

オジャラ「思いだしてきた。あの、農夫とか、漁師とか造った人だっけ?」

眼鏡「はいそうです」

内面の表現が素晴らしい人物作品群を残した彫刻家である。

眼鏡君は、本質的な質問をしてきた。

「僕は、どうして、人が、(僕がヨイと思わない)その作品を良いと言っているのか知りたいんです」

オジャラ「あはは。人それぞれだからね。展示や、収蔵品っていうのはさ、予算なんかにもよるわけでしよ。アナタの地元の静岡の美術館と、国立近代美術館のコレクションじゃさ、もともとのファンドが違うわけ。

それだって、地方の学芸の人は、地元の作家や、手持ちの作品を優れていると発信し続けて、評価を上げてゆくのが仕事なわけ。

だから、良さがショボイときだって、絶賛することはあるわけよ」

眼鏡「なるほどー」

という話で一杯のビールは、飲み干されてしまい、本日のアート談義は終了となる。

眼鏡「もう帰っちゃうんですか?よかったら、もう一杯、、、」

オジャラは、あらゆるお誘いを、毎度キッパリお断り。

酒というのは、自分の稼ぎで飲まなくてはならない。

深夜のバーであっても、夕方であっても、話が盛り上がれば、男は女を引き留めようとする。(たぶん、アタシが女という理由から、おごってくれようとする人は多い)

そうして、アタシは、もし、それを頂いたりしたら、(もともと酒飲みなわけで)また誰かにおごってもらえるという気持ちで、飲みに行くようになる。

そういう卑しい自分、弱い自分が嫌なのである。そういう弱い心では、絵が悪くなってしまう。

ので、いつも、一杯おごりますという申し出を断ってごめんなさいと、マスターにも詫びを入れるのである。

アート観賞というのは、愛好であるのなら、自分の主観だけを信じればよい。

それが、画商としての仕入だったり、学芸としての、作品や作家の研究なのであれば、正確でなければならない。

それがアタシの持論である。

テレビ番組の解説やナレーションなどで、本人の肉声や、日記や、著書の引用ではなく、あきらかに、シナリオライターや、関わった研究者の私見というか、感情が混ざっているときには、「そんなこと、どうして、(何も作ってもいない)アナタごときに解りようがあるのよ」

と、プンプンになるときがある。

だから、そういう意見は黙殺するのが常。

ただ、作家本人が書き残した、アートに対する考え方や、創作とは何か、創作者としての哲学的な短文は、心が動けば、必ず正確に書きとるようにしている。

大切なことは、第三者の意見と、作家本人の意見を混同しないことである。

眼鏡君は、日本人らしく、文字からアート観賞する傾向が高い。

本来の審美眼というのは、作品から出るオーラを感じ取ることができれば、それが、有名とか、無名とかは関係ないのである。

右の、高麗茶碗のレプリカだって、アタシがゲットした方の茶碗だって、作家の収入を得たいという気持ちは伝わってくる。

調べれば、「古典の写し」かということが解るけど、ホンモノはまだ、写真すら目にしたことはない。

どちらにしても、(値段的にも)手に入れることはできないし、手に入れたとしても、高すぎて、普段のお茶には使わないだろう。

美術館に展示されつづけ、箱に入り続ける美術作品というものも世の中には多い。

それが、何百年も続くのであれば、作家冥利に尽きるわけだが、箱に入って、誰にも存在を知られなかったのだとすはれ゛、それは、存在しなかったことと同じである。

どんなに、美しく古典を再現できたとしても、それは、職人としての収入しか得られない。作家になるのであれば、自分にしか造れない作品を作らなければならない。

そうして、そういう作風というのは、陶芸で手に入れるのは難しい。

そういう中で、ルーシーリーとか、寛治郎とか、富本健吉、加守田章二なんかは、アタシが、アートフェアなんかで、ブラブラしている時だって、見間違えることはない。

茶碗ひとつから、こういう感情が生まれてくるというのも、作品(技術)が優れているからにほかならない。

河井寛治郎も、古典の作品の復刻に執心していた時期があったが、ある日、これを継続していてはダメだと気付く日が来る。

そういう日は、誰にでも来るわけではない。

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